トッブ 写真集トップ 函館東高生徒会誌・グラビア集1970年代前半
函館東高生徒会誌・グラビア集1960年代
 1枚の写真が時として人を動かし、世の中を変えるきっかけになることがあるという。このグラビア集が東高OBの皆さんの心に東高を呼び起こす、東高の資料になる筈だと考え、公開に踏み切った。「ひんがし創刊号」の編集後記には次のように記されている。
 「今年(昭和40)年度創立25周年を向かえようとしている。東高の歴史もはや伝統もしっかり築かれた東高の歴史の中に、私達はこれまで生徒会機関誌というものを持ちませんでした。1年1年の行事記録もさることながら、古いよき伝統をふり返るにも、その足跡をたどる資料を得ないでおりました。それを残念に思いつつあった今年、学校側及び生徒諸君のご承認と、加えてご協力をいただいて、予算面その他でいろいろご無理をかけながらも、生徒会誌第1号を創刊の運びに至りましたことは、共々大きな喜びだと思います」。
 こうして発行した「ひんがし」は、この11年後に財政難により廃刊になる危機を迎えた。(生徒会誌「ひんがしの危機」参照)だが、生徒会誌を値上げてしても続行すべきだという生徒会決議により、廃校まで一度も滞ることなく発行が続いた。

 写真とともに「ひんがし」の生徒や先生達の思い出の投稿を掲載した。それもまた東高の歴史証言であると考え、敢えて氏名ととも引用さていいただいた。
 批判を覚悟に勝手に引用したことをお詫びするとともに、お礼を申し上げたい。
   管理人
〔尚、ほとんどの生徒会誌を入手して掲載しているが、一部入手できていない〕
生徒会誌から函館東高を振り返る」・・・ブログ、ご意見、ご感想、ご批判をお待ちしてます。
1965.2.25創刊号発行、表紙:2年勝山真吉
1953(昭和28)年の東高修学旅行の様子(函館新聞)  写真
●マラソン大会:始まりは1954(昭和29)年で、それから毎年10月に行われていた。男子は10q、女子は星川先生(注:星川滋子先生なら11回生なので1960年)が2年生の時に始まり、3qを走るというものでした。それまでは、男子がマラソンをしている間、女子は球技大会でバレーをしていたそうです。
 マラソン大会で印象に残っていることは、クラスで早い人が遅い人のペースをつくり、協力の元にクラスで団結して走っていたことだそうです。なぜなくなったのかは、行事をできるだけ減らすためだそうです。 「ひんがし39号」より
●記念碑「青雲の志」―懐しの木陰に―初代校長の胸像除幕式参照
修学旅行 2年山下真紀子 (抜粋)
 9月19日午前6時、私達一行400人は、これから10日間の旅行に期待と不安の混じった奇妙な名気持ちをいだいて、八甲田丸で函館港を出発した。・・・・
 それから数時間後、予行列車は一路東京へ向けて走っていたが、その中の私達は動いてる事など意識する間も無い程、おしゃべりや、トランプ等を楽しんでいた。こういう場所に来て聞く先生達のお話も面白く、色々な細かい事にまで気がつかれ、私達より良く生徒の事を知っていらっしゃる事を知って驚いたりした。・・・・
 お茶の名産地宇治で、九州から来ている修学旅行の生徒に「あなた達、北海道?」と聞かれた。「そうだけど、どうしてわかったの?」と問い返すと「男の人達が、何だかするべって言ってから。私、前に北海道にいたの」。色々な事を話したら、面白いだろうなと思ったが、時間がなくて出来ず、とても残念だった。家を離れた土地で、故郷の人にあううれしさをその時私は、味わっていたのだ。・・・
 京都の旅館では、クラスの人達は、みんな仲良く一つの部屋に集まって遊んでいた。今まで余り話したことの無い人と“友達”や“友情”等について話せたり、その結果今まで受けていた印象と違ったり貴重な時間を持てたと思う。ふとんの中に入ってからのおしゃべりも楽しみの一つとなり、修学旅行ならではの事だったと思う。私は修学旅行の意義のひとつをここに感じたりした。
 私達の旅行は再び八甲田丸で帰函して終わりとなったが、出発する時に見た函館山の感じとは違って、わずか10日間離れていただけなのに、とても懐かしく、あなたの街に帰って来ましたよ。としみじみ呼びかけたい気持ちだった。「「ひんがし創刊号」より
生徒会役員研修旅行 2年市川路子
 4月下旬、私達役員会は、発足当時からの念願であった研修旅行に、強行スケジュールとぎりぎりの費用で出発した。
 深川西、深川東、札幌北、札幌西の4校を巡ったが、中には道内でも屈指の生徒会活動の盛んな学校もあり、毎年各地から数校の訪問をうけるとのことである。
 総体的に見て言えることは、着実で建設的な意見に基づいた構想と弾力性のある態度ですばらしいフレッシュな活動をしていることであり、又その中にもその学校の伝統や校風がにじみでていたことであり、ユニークな雰囲気を作り上げていたということである。
 一般生徒も問題意識が非常に高いために反応が著しく、私たちとは数段の差があるようであったが、こういう活発な学校もそれなりに多くの問題を抱えていた。・・・(割愛)・・・・
 この旅行での収穫は非常に大きく、私たち役員会には貴重な資料となり手本となった。特に執行委員会の活動については得るところが大きく、委員会の自主性、役員会との関連性について、考えさせられ、又、私たちなりに消化することができた。「ひんがし創刊号」より
1969.3.10発行、表紙:3年稲島慎 1970.3.10発行、表紙:笹谷高理
理数科1年たって
 昨年(1968年)、理数科設置に賛否両論の激しい対立をよそに、札幌啓成、旭川西、そして本校に1クラス40名の理数科が設置された。
 個々人の能力や適正に応じた教育として高校教育の多様化が叫ばれる中、文字どおり理科、数学を深く学習させるねらいの理数科が設置されたのである。
 高校教育の中に理数科設置という発言がなされ際、理数科が及ぼす危険性が叫ばれた。それは生徒間の対立意識であり、クラブ、生徒会それぞれの活動に参加出来ない事情が生まれることであった。校外のもの、一般の者の視点。それらも波乱を呼んだ。・・・・(割愛)
 ここに1期生を迎えた本校という事で提案し、これに答えてもらった。
クラストして 理数科とこの1年 1年J組 古田圭子
 高校生生活ももう1年、と言うより理数科に入学して1年と言ったほうが適切かもしれないが、とにかく早いもので、何か夢心地で過ごしてきたような気がする。
 私が入学した理数科は東高では第1回目で、40人編成の男子35人女子5人という圧倒的な男性族のクラスである。どこといって特長はないが、男子が多いせいか、活発で、案外陽気で、その中に、花というべき女子がポツリ、ポツリ点在している。ちょっと弱スケの多いのが気がかりであるけれど、陰気な様子は少しもなく、普通科と変わらない楽しさを持っている。理数科と聞くと、普通科と違って特別に見られる事が多いが、形式的にも、内容的にも、そんなに大きな差はない。違いといえば、理数系の教科が他の教科に比べて多いこと、火曜日の7時間授業、テストの普通科との違いなどがあげられる。・・・・(割愛)・・・・「ひんがし5号」より
 注:1968年(昭和43)に発足した理数科(普通科9学級、理数科1学級)は、1970年(昭和45) 普通科8学級、理数科2学級となり、そして1977年(昭和52)普通科9学級、理数科1学級に戻り、やがて1995年(平成7年) 理数科募集停止して1997年(平成9)理数科閉科となった。
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