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函 館 の 古 写 真 10 景
■ 企画・制作 函館市中央図書館 「ひと・まち・もの」語り~幕末・明治の函館」DVDより
■ 提供     函館市中央図書館
■ 商用禁止
 函館開校150周年記念連携事業ホームページ素材集として、函館市中央図書館より配布されたものです。
 入手にあたり上田昌昭さん(東高12回生、昭和37年卒)のご協力を得ました。厚くお礼申し上げます。
 また、こうした機会を与えていただいた函館市中央図書館デジタル・アーカイブ事業に携わっている職員方々に深く感謝します。
 写真にまつわる当時の様子を函館市史などから紹介しました。
 写真にまつわる思い出をプログに投稿ください。

                                    2009年7月 管理人
      
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田本研造写真帳(明治)

 撮影者の田本研造(別名、音無榕山=写真=)は1832年(天保3)、現在の三重県熊野市神川町の農家に生まれ、23歳の時に医学を志して長崎に赴き、医学や電気・化学などを学び、1859年(安政6)に箱館に渡りました。
 その箱館で、写真術をたしなむロシア領事館医師ゼレンスキーに出会うこととなります。間もなく、田本は凍傷で右足を切断、医師となることを断念して、ゼレンスキーから本格的に写真技術の手ほどきを受け、慶応2年頃から写真師として活動を始めることとなりました。 
 写真術を習得した田本は、横山松三郎や木津幸吉ともに北海道の写真黎明期に活躍、開拓使の依頼により道内各地に赴き、各地を撮影、当時の風景や習俗を伝える写真を多数残し、その写真は北海道のみならず日本写真史上貴重なものとして位置付けられ、後に道内各地で活躍する多くの写真師を育てました(1912年[大正元]死去)。
            
       「函館中央図書館「田本写真帳(田本アルバム)」の概要について」より

商業港としての基礎   

 明治初年の函館が港湾商業都市として、北海道経済にどのような地位を占めていたかを、移出入統計を欠いているため、数的に明らかにすることはできない。しかし、近世には、「松前三湊」といわれ、他国からの交易船が入港できたのは、箱館、福山、江差の3港に限られていたが、(1)松前藩の厳しい流通統制の下に政治的に発展してきた三湊の中で第一の天然の良港であったこと、(2)東海岸も西海岸も商圏とすることができる地理上の優位な位置にあったこと、(3)安政期における箱館開港、幕府の箱館奉行所の設置により経済的基礎ができていたこと、などを考慮すれば、三湊の中で最も発展できる条件を備えていたといえよう。
 また、その経済的蓄積も、決して小さいものではなかった。松前藩は、主食の米はもとより生活物資や生産用具の大部分を自給することができなかったため、松前・蝦夷地で産する鰊・鮭・昆布などの水産物や特産物を交易することによって、それらを手に入れなければならなかったので、海運を通じてはやくから中央市場であった敦賀、京都、大坂、江戸などと結びついた。松前三湊は領国経済の枠をこえる遠隔地交易の北の拠点として繁栄し、他国の大商人の支店、出店も少なくなかったのである。
                   『函館市史 商業港としての基礎』より
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札幌通より函館遠景 1873(明治6)年頃
函館市街全景(1876・明治9年
函館市街全景(1876・明治9年)
左の旗はユニオンジャック、右の旗は三菱商事の旗?
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函館港 1876(明治9)年
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函館港 明治
 この運上会所が、産物会所とともに大町の御作事場に建設されることに決まったのが安政5(1858)年10月4日であった。同年の12月20日に両会所建設の入札があり、1423両にて伊勢屋伝蔵代伊兵衛に落札された。翌年の1月29日に工事の増加分384両余の入札があり、2月20日にはこれらの工事に着手した。さらに同年6月26日運上所附属土蔵建築地所の埋立が690両で、7月に土蔵2棟が1430両でともに伊勢屋伝蔵伊兵衛に落札された。8月11日に運上会所事務室落成。万延元(1860)年7月1日運上所波止場が落成し、10月20日に全体で4551両をかけた運上会所産物会所建築工事が全部落成したのである(『函館税関沿革史』)。
 その後慶応二(1866)年に業務拡大と関連して「新規に築出運上所脇貸蔵地所等築立候ニ付、御入用金七千九百五拾五両余御増方に相成」(元治元年「文通録」道文蔵)とあるように貸蔵の用地として大規模な埋立を行なっている。
                『函館市史 運上会所設置と海岸道路普請』より


   ■左写真は「東浜町海岸から税関を望む 北海道立文書館」のもの。

   函館市史 「運上会所設置と海岸道路普請」より

    比較すると、上の「函館港 明治」の写真中央の写真は税関のようだ。
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基坂から税関を望む 1879(明治12)年
 「函館の移出入の対全道比は、上昇する傾向にあり、明治14年には、移出が271万円余、対全道比38.5パーセント、移入が862万円余、70.0パーセント、移出入総額1133万円、対全道比58.5パーセントで、北海道に出入する物資の約6割が函館を経由していた」「この時期の北海道の内国貿易は、わが国の商品流通に意外なほど大きな位置を占めていた。明治10年代前半の統計を使い、北海道は全移出額において三重、大阪、兵庫についで第4位(東京を除く)、全移入額においても東京、大阪、三重についで第4位で兵庫を凌駕しており、北海道の移出入は、わが国の外国貿易額に匹敵していたと指摘している。この北海道の移出入額の6割を占めていた函館の港湾商業都市としての実力も、おのずから明らかであろう」
                   『函館市史 内国貿易の展開』より
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函館公園開園式 1879(明治12)年
 「函館公園の物見台は俗称摺鉢山で通じて居るが、最初は歓楽山と云った事もある、明治山、宝氷山など種々と文書に記されて居るが何れが真物か知る事を得ない。此山は明治十一年開拓使函館支庁の大書記官時任為基氏等が自から鋤鍬とって建設したもので、之を見た市民は、全市を挙げて此土工に従事し監獄の囚徒も出れば、山の上の芸妓衆や雁の字達、さては金持の旦那までモッコを背負って、土運びと云う挙市一致の努力であった、そして海山奇勝の名公園を実現する事が出来たのである。此先人の努力一致を思う時、又逸見小右衛門が数万本の桜樹を自から植栽して、今日の桜の名勝である函館公園が実現した事を思うならば、花見の酒に酔い狂うると共に、新函館の人士も又社会奉仕の一端位を考えて見てもよかろうと思う。写真は開園当時の摺鉢山である」。
                 函館百珍と函館史実   「摺鉢山の出現を 函館市民は何んと見る」より
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願乗寺川より函館山を望む

 「中の橋から高砂通りを通って銀座通りへと縦貫する市道のすぐ東側に、かつて願乗寺川という川が流れていました。現在でも道路や建築の基礎工事などで、歩道や建物の下に時折その遺構を見ることがあります。

 この川は、安政6年(1859)当時の願乗寺(現在の西別院)の僧堀川乗経が、松川弁之助という人と共に企画し、多くの費用をかけて開削した人工の川でした。それは亀田川を鍛治橋のあたりで分派し、中の橋を経て銀座通りにあった旧堀割に注ぐ、長さ約4キロの大工事でした。

 この川によって沿岸の人々は飲用水に不自由することがなくなりましたし、おかげでほとんど無人であった所にも人家が建ち並ぶようになりました。このことが、このころから始まった市勢東進のきっかけを作る一つの大きな役割を果したのです。

 はじめはきれいな川でしたが、汚水の流入などでだんだん汚染がひどくなり、明治期に入ると、コレラの流行のときなどは、この川の水を飲んでいた人々に多くの犠牲者が出ました。明治21年に亀田川を中の橋の所から大森浜に切り替えました。これが現在の「新川」なのですが、そのこともあって願乗寺川は水の流れが止まり、悪臭を放つドブ川同然の哀れな姿となりました。そしてこの年に悪疫の根源の汚名を着たままとうとう埋め立てられてしまいました。

 翌22年に上水道が新設されて、約30年間市内に飲用水を供給し続けた役割を、上水道に譲ったのです。

 願乗寺川の名を市民は忘れかけていますが、万延元年(1860)に建てられた「函港新渠碑」は、今も西別院境内に残っています。また、最初に述べた市道で、市内では珍しく2キロの長さで見通しのよい直線道路があるのは、願乗寺川の流路が、この部分で直線であったそのおかげなのです。」
                   「市史余話「願乗川」より

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水道通水式 1889(明治22)年
 「我が函館は本道に於ける先進都市であると共に、我邦に於ても逸早く泰西文化を輸入した土地である、気象観測所の創始、洋学研究所の創開等は勿論、此種の施設は挙げて数うべからざるの多きに及んでいる。函館水道も其一つで、日本最初の近代的水道と云う横浜水道が全部外人の設計指導に依って漸く明治二十年完成を見たるに、我函館市は其翌年工を起し全部邦人の手に依って完成する事が出来た、爾来市民は我邦第一の清澄たる飲料水の天恵に浴するを得た喜びは、函館市空前絶後とも称せらるる水道祭を挙げたものだ。当時使用鉄管は英国より輸入したが、之れが納入者は横浜のイリス商会であった、其完納と敷設落成との喜びとしてイリス商会は二基の噴水器を函館市に寄附した、それは今公園内北海池と、正門脇貯水池とに装置されているが、もとは公園広場の中央と、他は西川町遊園地(今の市民館所在地)とにあった、紅塵万丈炎天の日を思う時あの東川町の小公園に正門脇にある一基を移したならばと思わざるを得ない。」
                函館百珍と函館史実  「日本一の函館の上水道」より
田本写真帳(明治)
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田本写真帳(明治)

西部風物詩の一つ“金森倉庫”の生い立ち

 この周辺は、幕末には地蔵町築島(明治以降は船場町と改称)と呼ばれ、外国人の居留地や官設造船所などがありました。倉庫群の西側の一角はドイツ商人のシュルターが居住し、同じドイツ人のシュトラントと貿易の仲介をするかたわら船舶給水業を行っていました。

 彼らの死亡後、その洋館は料理店(養和軒)に転用されていましたが、明治23年に洋物商の渡辺熊四郎が、これを購入して洋館は湯川に移し、跡地に倉庫を建設したのです。

 渡辺熊四郎が倉庫業を始めたのは明治20年のことでした。それまでの倉庫業といえば、所有者も大手の問屋商人や海産商、それに三菱会社や共同運輸会社などの海運会社に限られ、その用途も専ら自己の営業に伴うための施設だったのです。

 他人の物品を保管し、倉庫証券を発行するという近代的な企業としての倉庫業は未発達な状態でした。全国的に見ても、倉庫業が企業として成立するのがこのころですから、彼が新しい時の流れにいかに機敏であったかが分かります。

 彼はまず、日本郵般(株)に合併して不用になっていた共同運輸の敷地(現在の東側の棟の区画、この土地は官設造船所、続豊治造船所、北海道運輸会社、共同運輸、日本郵船と使用者が転々としています)を同20年に購入し、その10月に2万石収容のレンガ造りの倉庫を完成させ、金森の屋号(カネモリ)倉庫として開業しました。

 数年で手狭になったので、前述したシュルターや隣地の旧広業商会(貿易会社)の土地の確保をして営業規模を拡張していきました。同28年の『函館町別倉庫調』によると21棟1656坪に及ぶ倉庫を所有し、断然他の倉庫業者を引き離しています。

 明治40年の大火により、すべて焼失しましたが直ちに同じ場所に再建、同42年5月に完成しました(金森商船(株)倉庫部調べ)。この時の倉庫が今でも利用されているのです。

                                    「市政はこだて」No.555 1985.12 菅原繁昭

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